〜特別展みちくさ点描〜

万国博覧会とサケの人工ふ化事業

はじめに
 平成10年7月18日〜8月30日の期間、平成10年度第1回特別展「川の旅びと・鮭」を開催した。この特別展を準備している過程で、サケ・マスの人工ふ化事業に先鞭をつけた関沢明清なる人物の存在を知り得た。 そこで、ここでは関沢明清を軸に、明治9年を嚆矢とするサケ・マスの人工孵化事業の顛末と博覧会の果たした役割を簡単に紹介する。

関沢明清と万国博覧会
 1873(明治6)年のウィーン万国博覧会に関沢明清が参加していなければ、明治9年に開始されたサケ・マス人工ふ化事業は、その黎明に今少しの刻を要したのではないかとさえ思う。
 関沢明清と万国博覧会との出会いには、運命的なものを感じさせる何かがある。
 関沢明清は、1843(天保14)年、加賀百万石の城下町金沢で生まれる。父親の安左衛門は二百五十石取りの加賀藩士であった。周囲の人々は「邪心のない、好人物。卓越した洞察力に基づく行動は、軽捷で俊敏。奇才」であったと語っている。水産界のパイオニアとして評価される明清の業績にもこの父親の徳性を十二分に垣間見ることができる。一方で、「仕事に没頭するあまり、他人の下駄を間違えるのも常」といった粗忽な面も持ち合わせていたようである。この点でも好人物と評された父親の性格を受け継いだような話である。
 さて、ウイーン万国博覧会に明治政府派遣団の一級事務官として参加した関沢明清には、博覧会の展示業務以外に、文明開化を推進するための大きな任務として「貿易に関する調査」が与えられていた。関沢は、博覧会のパビリオンの一つであったスエーデン・ノルウエー漁業館で水産加工品を目に止め、同時にこれらの輸出収益の膨大なことに驚かされた。さらに驚いたことに次に訪れたオーストリア農業館にはサケの成長過程の標本が展示されていた。今日の我々がみると一見何でもない光景のアルコール漬け標本を見て、関沢が驚いたのには訳がある。金沢生まれの関沢は、犀川を上ってくるサケを知っていた。子供の時の体験は、卵やふ化直後の稚魚ならともかく、順次大きくなった稚魚をとることの不可能に近いことを瞬時に理解させた。この疑問が、関沢にサケの人工ふ化技術の存在を知らしめることになる。しかし、この時点では事情があって技術の修得までには至っていない。
 関沢は、1876(明治9)年に開催されたフィラデルフィア博覧会に事務官として再び参加した。関沢は、天与の好機を逃さずサケ・マスの人工ふ化技術を会得するとともに、カナダ産のサケの缶詰に注目し、日本における水産業興隆の端緒を掴んだ。

人工ふ化事業の開始
 関沢が帰国したのは、12月26日である。約1カ月前の11月下旬には茨城県那珂川で鮭が捕獲され受精卵を得ていた。一刻の猶予もならぬといった関沢の人工孵化事業に対する並々ならぬ思い入れと、父親譲りの奔走振りを窺うことができる。捕らえた鮭の受精卵は大里郡押切村(現大里郡江南町)の養魚場において養殖し、1877(明治10)年4月29日体長約6p以上に成長した稚魚1万2千尾を荒川に放流した。ついで、5月11日と23日には内藤新宿(現東京都新宿区)の勧農局試験場の稚魚2千5百尾も多摩川に放流された。数量的な比率からすれば、この歴史的なサケの稚魚の放流は荒川が中心であったといえよう。しかし、翌1878(明治11)年の放流総数二十余万尾からすれば、本格的な人工ふ化・放流事業の開始にはまだ1年間を要したと言い換えることもできる。
 なお、1878(明治11)年の那珂川下流で捕獲・採卵されたサケの受精卵のうち、押切村には3万5千粒、埼玉県下新座郡白子村(現、和光市白子)には3万9千粒、神奈川県田名村(現、相模原市)に4万5千粒(6万粒の新聞記事もある)、愛知県宮田村(現、江南市宮田)に3万5千粒、神奈川県西多摩郡柚木村(現、東京都青梅市油木町3丁目)に6万粒を割り当てている。新規にもうけた田名村の養魚場は相模川への放流を意図したものであり、柚木村及び白子の養魚場には、成魚まで育てるふ化事業センター機能を期待している。このように、東京周辺の3大河川での実施は、サケの天然遡上限界を知った上で、新たなサケ遡上河川の開拓を意図したことが垣間見られる。まさに、明治時代という熱量の最も高い時代ならではの選択であった。

放流以降・荒川
 このサケの人工ふ化・放流事業に伴って、稚魚捕獲禁止の諭達が荒川・多摩川が流れる府・県から出されている。埼玉県では、県令白根多助の名前で1877(明治10)年5月8日付け、東京府では5月16日付け、神奈川県では5月30日付けでそれぞれ出されている。内容を要約すれば「日本の水産業の繁栄を願ってサケの稚魚を放流したので、全員、どのような理由であってもサケの稚魚を捕ってはならない」といったことである。ここで、「今までに見たこともないような魚(鮭の稚魚)」といっていることに注目するならば、明治初期における多摩川・荒川でのサケの天然産卵はなかったことを物語ってはいまいか。

明治10年埼玉県が出したサケの稚魚捕獲の諭達


 サケの人工ふ化・放流事業の先鞭をつけた荒川のその後であるが、押切の養魚場は、1880(明治13)年には、三面川で採卵した5万粒、千曲川で採卵した6万粒計11万粒を養育しているにもかかわらず翌(明治14)年度の放流を最後に閉鎖された。理由は、「荒川での事業は、数年放流を継続した後、回帰の状況を見るためだけに行った試験的なもの」としてある。
 さて、その結果はと言うと、1880(明治13)年10月28日に現在の秩父市寺尾地先で1尾、1882(明治15)年12月5日に現熊谷市久下地先の荒川において1尾捕獲されたとの報告が1883(明治16)年にまとめられた埼玉県内の水産概況の中にあるのみである。
 1883(明治16)年には、第1回水産博覧会が上野の森で開かれた。埼玉からは、荒川で捕獲した鮭の剥製が出品されているが、前年末に久下地先で捕獲された鮭や如何。いずれにしても、日本における水産史のみならず博物館発達史に残るこの「サケの須介」を見てみたいものである。

(吽)

※参考文献として、和田頴太著「鮭と鯨と日本人〜関沢明清の生涯」成山堂書店ほかを用いた。



 !これ、なーんだ?



みなさん、この字を見たことありますか?
何という字で、どこにあるでしょうか。










 この見慣れない字は、草書体の漢字で「みず」という字です。東秩父の精米水車のかやぶき屋根と本館第一展示室の水塚の扉に書いてあります。
  人々から恐れられていた火災に遭わないことを願って水という文字を書いたわけです。

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