さいたま川の博物館
| (会 場)さいたま川の博物館第2展示室 (開催期間)平成12年7月20日〜9月3日 【開催趣旨】 日本人は、古代から夜空に輝く白い帯を、天上の「川」と意識してきました。そのため、中国から伝えられた、牽牛と織女を隔てる天の川伝説は、日本人の心の中に広く受け入れ、七夕行事と深く結びつきました。一方、西洋では英語でミルキーウェーというように「乳の道」と称したり、ギリシャの「銀色の道」、ペルシャの「わらの道」と称するように、「道」と考えていたようです。 近年、暮らしを照らす膨大な光の影響で、美しい「天の川」を見ることのができる地域がしだいに少なくなっています。このことは自然河川がなくなりつつある日本河川をとり巻く現状と重なるものがあり、天と地における河川環境の問題を考えるうえで、今日的な課題といえるでしょう。
本特別展では、古事記をはじめとする天の川の文献資料や仏教天文説などの天文学資料、江戸時代に伝えられた天球儀や望遠鏡などの西洋天文学の資料、さらに伝統的な七夕行事資料などを展示することによって、私たりたちの祖先が夜空に輝く美しい白い帯を天上の川と見立てた心を理解するとともに、地上を流れる河川や美しい夜空の環境と人との共生を考えていこうとするものです。 (1)古代日本人と天の川 古代日本人はあまり夜空を観測しなかったといわれますが、日本最古の書物の『古事記』には、天の川を想像させる「天安河」や日食現象と思われる天の岩戸神話などが記載されています。また、奈良時代の歌集『万葉集』には天の川を題材にしたたくさんの歌が読まれています。 (2)中国から伝えられた天文暦学 日本の伝統的な天文学は中国から伝えられた天文暦学ですが、ただ中国の暦を真似してだけでした。しかし、江戸時代になると渋川春海(1639〜1715)によって、貞享暦改暦(1685)が行われ、はじめて日本の暦がつくられました。春海は西洋天文学も学び、日本ではじめて天体測量のための渾天儀や天球儀の製作を行いました。
(3)西洋天文学とオランダ通詞 江戸幕府8代将軍吉宗は、天文気象や自然科学に強い関心を持っていましたので洋書の輸入を緩和しました。そこで、西洋の天文学や医学などを学ぶ機運が高まりました。 日本に西洋天文学を広めるに大きな役割を果たしたのが、本木良永と志筑忠雄という二人のオランダ通詞です。本木良永は日本に最初にコペルニクスの地動説や西洋人が天の川を道と見立てていることも紹介しました。志筑忠雄はニートンの天文力学を紹介しました。 (4)仏教天文説と円通の苦悩 天台宗の僧円通は西洋天文学の地動説が広まることによって、天動説をとなえる仏教の権威が衰退することを恐れ、仏教天文説を目に見える形で表した須弥山儀を考案し、インド古来の宇宙観である須弥山宇宙観を展開しました。
(5)眼鏡師と鉄砲鍛冶師の望遠鏡 望遠鏡は1608年、オランダ人の眼鏡レンズ研磨師が発明し、慶長18年(1613)に日本に伝来しました。日本で大量に天体望遠鏡を製作し世間に広めたのは宝暦6年(1756)生まれの眼鏡師岩橋善兵衛です。また、鉄砲鍛冶師の国友籐兵衛も天体望遠鏡を作り、世界最初の太陽黒点の連続観測を行いました。
(6)七夕行事と天の川 日本の七夕行事は、中国から伝えられた天の川伝説や、乞巧奠と呼ばれる星祭りとは別に、盆行事の一部として、祖霊・精霊を迎えるための準備の墓掃除や墓参りを全国的に行っています。七夕の真菰馬に先祖様が乗って降りてくるとか、七回水浴びをするとか、水に関連する習俗も多数見受けられます。祖霊を迎えて行う盆行事の準備段階として、水による祓い・潔斎が重視されていた名残の儀礼が伝承されているといわれています。
(学芸二課主任学芸員 岡本一雄) |
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